同行三人をすることで何になるのか?
東北の被災者の事を思うのなら、募金じゃね?
それか、復興支援するなら現地でボランティアとか
福島原発問題なら、同じく現地へ行くって手もあるし、四国行く意味なんて無いんじゃね?
もっと他にあるんじゃない?
ただ、自分が行きたいだけでしょ?なんでその為に支援とか求めてるの?
自分でしたいことなら自分の金でやれば?
疑問をざっと挙げるとこんか感じかと思います。
一個一個行こうと思います。
まず、募金ですが、Requiem時にも言われましたが募金活動はしません。Requiemの時は大使館だったので実質無理でしたが。
誰かの為にって考えても利己的な僕には出来ないのです。Requiemは同じような思い(皆で黙祷をする場所・機会を探してる、何でもいいから何かしたい。など)そういう多くの思いと一致した結果だと思っています。
同じ理由でボランティアもしません。震災を日本で体験したのならするかも知れないけど、たぶんしたとしても1、2回程度だと思います。(勿論素晴らしいことです)
そして、福島第一ですが、僕の両親は現在福島県南会津郡に住んでいます。2009年位に念願のマイホームを建て野菜などを育てています。(農家ではないです)その前までは埼玉県草加市のマンションに住んでいました。僕もそこで多くの時間育ったので思い出は草加にあります。南会津には父の実家があり、現在住んでる家の隣は父の姉が住んでいます。
念願の土いじりをしながらの悠々自適な生活をする両親は元気に僕を応援してくれています。
2011年12月に一時帰国をして、実家で久しぶりに家族で年越しをしました。
着いた日に鼻血を出したのはご愛嬌。
正直に言います。
僕は怖いです。
目に見えないモノが。
味もしない香りもしない、特殊な装置で調べると警戒音と共に聞きなれない単位の数値が。
そしてそれを大丈夫だと言ってしまう人々が。
そして、
そんな事気にしてるの?蔑
な人が。
僕は科学者ではないし、頭もそんなにキレる訳ではないです。
ただ、絵が描けます。
やりたい!と思うことがあります。
日本でしたいことがあります。
何を願ってかは正直まだ分かりません。
2013年に車でお遍路をした際に(事故で途中リタイア)何処かのお寺で聞いた話です。
空海上人がお遍路をした頃は勿論今とは道も違えば寺も違うし順番だって違う。
ただ、その当時の日本は飢饉か何かで荒れに荒れていたという。
その状況をみた上人が祈りを捧げる為に行った苦行がお遍路なのだ、と。
事故の影響か正確な記憶か微妙ではあるのですが。
Requiemを大乗仏教的な位置に僕は位置ずけています。多くの人と同じ時間同じ行為をし、思いを共有しようとした訳ですから。南無阿弥陀と唱えれば良いのです。
「同行三人」は小乗仏教です。行うのは我々二人(と上人)だけです。しかも正確には僕のみです。
皆さんは太湯さんの撮った映像(太湯目線)でその様をご覧いただくわけですから。
したいと思う事をする為に(勿論法に触れたらダメ)生きてると思っています。
誰かを傷付ける事もあるし、(心身ともに)逆もある。
失うものもあるし、得るものもある。
お金さえあれば幸せか。
お金は中間的な存在だ。全ての間にある。
喉が乾いたら水を飲むのに対価として払う。お金は喉を潤すとも言えるし、お金そのものでは潤せないとも言える。
今更言う必要もないか。
作品を売って、もしくは商品を売って得たお金を今後したいと思う自分の未来に投資する。その結果は結果が出てからしか分からないし、考える必要も今はない。
依って「同行三人」は自らの未来に対する投資である。
言い切ってみました。
ある意味での新商品開発です。
全部の疑問に答えられただろうか。。。
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